自分たちを受け入れた米国の社会を、なぜ憎むようになったのか

(日経「春秋」2013/4/21付) 小学校でグループに分かれて遊ぶことがある。ふと気づくと自分ひとり外れていたときなど、泣きたい気持ちになるものだ。駆け寄ってきて「おいでよ」と声をかけてくれる友達もいる。爆弾テロの犠牲になった8歳のマーティン・リチャード君は、そんな子供だったと。捕まったジョハル・ツァルナエフ容疑者は19歳の学生だった。紛争が絶えないロシアのチェチェン共和国の出身で、10年ほど前に米国に移住したらしい。自分たちを受け入れた米国の社会を、なぜ憎むようになったのか。死んだ兄は「米国人の友達なんか一人もいない」と語っていたという。底知れぬ疎外感が伝わってくる。もし兄弟がマーティン君のような友に出会っていたら……と。
(JN) 他人を不幸に陥れることは、その目的は何なのであろうか。憎しみであろうか。何であっても、テロ行為はあってはならぬことである。しかし、生きるか死ぬかの環境で生き抜いてきた者には、自分が生きて行くためには、他人を陥れて何が悪いのだという事なのであろうか。なぜ、そのような生きるか死ぬかの環境が起きてしまっているのかと考える。それは本来、生き物はそういう環境なのであった。それが人類は他の生物や自然環境を破壊することによって、生きるか死ぬかの環境から脱してきた。でも、本当に脱したのは一部人々であり、人類全員ではない。一部の人たちが幸福で、一部の人たちが疎外されている。そういう状況である以上、こういった不幸は生じる。一部の幸福であろうと思われる者たちは、自分たちを守ろうと、様々な壁を作って排除しよとする。こういった行為により、疎外された者は抵抗をしてくる。しかし、我々はなかなか「おいでよ」と声をかけられない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO54216380R20C13A4MM8000/