(日経「春秋」2013/3/21付) 五木寛之さんが「雑然たる渋谷ハチ公前に立つとき、私は強い嫌悪感と、激しい愛着の念を同時におぼえずにはいられない」と。けばけばしい看板、街頭放送の絶叫、クモの巣のごとき電線。時は流れ、人は変わり、渋谷もずいぶんきれいになった。けれどハチ公前のあの混沌と喧噪(けんそう)はどうだろう。迷路のような駅の構造はなんだろう。そこにはなお昭和が匂う。東急東横線の渋谷駅が地下に潜った。これはほんの手始めで、将来は超高層ビルが立ち並び、東西の坂を空中回廊がつなぐという。ライバルの新宿も驚く、この街の戦後の終焉(しゅうえん)である。かつて作家に嫌悪感と愛着とを催させてやまなかった陋巷(ろうこう)は消え、無機質な未来が出現するなら寂しくもある。東横線の大移動はたった数時間で完璧に遂行された。技術大国のそんな力に託す夢が郷愁とせめぎあっている。
(JN) 陋巷こそ私たちの歴史であろう。五木寛之氏の見た洗練された都市にもその歴史的陋巷があったはずだ。私の住んでした府中には嘗て陋巷が幅を利かせていたが、平成とともにその多くがデパートに変わり、昭和が消え失せてしまった。今の中国のようであった若者の活力と大気・河川汚染は過去となり、無機質な老人国家になっていくのであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO53038230R20C13A3MM8000/