『歌謡曲の衰退は寂しいが、良き「聴き歌」とその歌い手は忘れ去られることはない』

『歌謡曲の衰退は寂しいが、良き「聴き歌」とその歌い手は忘れ去られることはない』<2019年5月21日(火)>

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 阿久悠さんが「誰が歌謡曲を殺したか」で『筆洗』(190521)は、「聴き歌」の話をする。「『聴き歌』とは・・・もっぱら歌を聴き、歌い手の技、芸を楽しむ歌のことだそうだ。カラオケの普及もあって歌いやすい曲ばかりを求められる時代となり、・・・歌謡曲は衰えていったという。阿久さんの説に『聴き歌』の歌手が思い浮かぶ。紫綬褒章に選ばれた石川さゆりさんである。卓越した歌唱力、表現力、訴求力。・・・<誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか>という穏やかならぬ情念の世界は石川さんにしか表現できまい。歌謡曲の衰退は寂しいが、良き『聴き歌』とその歌い手は忘れ去られることはない」。
 (JN) 自分のことで恐縮だが、歌は好きだ。だが、歌うのは下手糞である。それなのに、ついついマイク片手にみんなに迷惑をかける。曲は、あまりお上手ではない歌手の歌を歌う。あるいはフォークソングである。これでは、不快を与えるだけでろうが、皆さんがその後に歌いやすであろうと、歌わせていただく。そんな私には、勿論、「天城越え」には手を出せない。「浄蓮の滝~」と歌いたいが、「聴き歌」ではなく「危機歌」になってしまうか。私はともかく、石川さゆりさんは、叙勲に値しようか。勲章の価値がわからぬ私が言っても仕方がないが、「おめでとう」石川さゆりさん。