『動物保護を名乗った手が虐待の冷たき手だったのか』

『動物保護を名乗った手が虐待の冷たき手だったのか』<2018年8月27日(月)>
 「水戸市内で動物保護活動をしていたNPO法人の理事長が動物愛護法違反(虐待)の容疑で書類送検された」ことに、『筆洗』(180826)は「人間という動物のことが皆目、分からぬ」と言う。「犬や猫を飼った人ならよく分かる話だろう。かれらは人間の想像以上に寂しがりやで傷つきやすい。だからこそ、この事件を聞き、胸が痛いのである。・・・猫に袋をかぶせて突き落とす。犬の首を絞める。・・・何らかの事情で飼い主と離れ離れになった犬や猫だろう。十分に悲しい思いをしたかれらである。もう寂しくないよと背中をさするべき動物保護を名乗った手が虐待の冷たき手だったのか。なぜ、こんなことを。犬よ猫よ、聞いてくれるな」。
 (JN) 子ども時代、動物たちに教わって来た。自宅だけでなく、お隣のワンちゃんや田舎の猫たち。遠い記憶に微かにあるのが「太郎」である。私の幼児期で、ソフトバンクのお父さんのようなワンちゃん、短命であった。家族はもう悲しくなるのが嫌で、それ以降、犬を飼うことはない。その後、幼稚園の頃に十姉妹を飼うが、今度は自然の摂理に襲われた。籠を外へ出しっぱなしにしたら、蛇に襲われてしまった。又も悲しく、もうペットは飼わないとした。生き物は亡くなる。また事故に遭う。その責任を取ることの難しさを子供心に思うところであった。それ以降、お隣のワンちゃんの「次郎」と戯れる。何年遊んでもらったろうか、その「次郎」も亡くなる。仲良くなったお友達の死は辛かった。その後、お隣はセキセイインコを飼い始める。そして、ヒナが孵り、一羽が我が家にやって来た。餌付けから面倒を見れば、我が子である。でも、その可愛い我が子のようなインコが先に亡くなるのである。何羽か、その後も、インコを育てたが先に逝ってしまう。亡くならない方法はないものかと思い、また籠に閉じ込めておくことがどうなのかと悩み、未解決である。