『「死は鴻毛よりも軽し」は軍人勅諭の一節だが、それを・・・』

『「死は鴻毛よりも軽し」は軍人勅諭の一節だが、それを兵士らに用いて恥じない戦争指導の無能と非道であった』<2017年8月15日(火)>
 200人を指揮する金子兜太俳人)さんはトラック島にて「頭を占めたのは、畑の生産力と人数をにらみ、あと何人死ねば食っていけるかという推計だった。今も悔いる『破廉恥(はれんち)な計算』である」。『余録』(170815)は、金子さんの句を紹介するとともに、現実を思う。「ある歴史学者の推計によると、先の戦争での日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち餓死・戦病死が6割にのぼる。・・・内外の戦没者に平和を誓う終戦の日だが、今年は東アジアに飛び交う好戦的な言葉が心を騒がせる中で迎える。人の生命を道具としか思わぬ軍事指導者と今も向き合わねばならない戦後72年の夏である」。
 (JN) 8月15日が停戦の日である。あの時、日本国民はどういう思いであったか。誰が日本を救ったのか。今日を私たちはどのような日と捉えねばならないのか。みんなそれぞれに信条や行動は違うだろう。しかし、戦争というものは、人びとに何ら良いことがないということであり、起こしてはならないことであるということは皆に理解してもらわねばならない。それなのに戦争は起きる。行うものは互いに正義を作り出し、今もどこかで戦闘が行われている。勝者が正義であるか。否、勝者などはない。戦争に正義などはない。戦争は淘汰という現象という「破廉恥な計算」も成り立たない。権力者の妄想に、国民が誘導されないために、各国民が互いに理解しあうことであるが、正に他人同士が信頼をし合うことの難しいことか。でも、諸国の民が信頼し合い連帯しなければ、戦争は永遠に継続されようか。