『仁三郎は突然、死んでしまいましたな。さびしくなりました』

<2016年12月11日(日)>
『仁三郎は突然、死んでしまいましたな。さびしくなりました』
 「テレビの時代劇『鬼平犯科帳』が今月、28年の歴史に幕を閉じた。鬼平はこれからも生身の人間として心の中に生き続ける」と、「余録」(161211)は、池波正太郎のエッセーからその魅力を伝える。仁三郎の死について、見知らぬ老紳士に「さひしくなりました」と話しかけられた。「『激しく作家冥利を覚えた』。『ペンで作り上げた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、思われないときがある』。『ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい』。『ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい』」。
 小説家、なりたい職業の一つだが、自分ができない職業の一つでもあろう。あの創造性、そして事実を調べ上げる能力、更に人を引き付ける表現力、これは自分にはまったくない。であるから小説は嫌いだと言いたくなる。読み始めると自分がその中のものになり、心を奪われていく。魅力たっぷりの小説に出会うと、他のことが疎かになる。これは、本の中だけでなく、テレビ画面においても同じことが言える。時代劇や刑事もの、うっかり見てしまったら、1時間の時間を失ってしまう。そんな危険な「鬼平犯科帳」が終わってしまう。ケーブルテレビは危険な番組がいっぱいあり、どこかで登場人物になりきっているのであろうし、その番組が終わろうと、多くの人物が私の心に居続けるだろう。(JN)