墓とは誰のためにあるのだろう

(日経「春秋」2014/8/14付) 3代前から東京で暮らしている。先祖代々の墓は広島の寺にある。東京で亡くなった祖父母も、広島に長く住んだわけではない父も、そこに眠っている。墓参りに行かねばとも思うが、足が遠のいて久しい。墓とは誰のためにあるのだろう。3.11から半年たった頃、建物の跡形もない土地が延々と続く中で、太陽を反射してキラリと光る一画が所どころに現れる。真新しい御影石の墓石が整然と並んでいた。地元の人々が何よりも先に再建したのは、失われた命の居場所だった。親鸞は、「某(それがし)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」(改邪鈔(がいじゃしょう))。それでも人は亡き親や友に手を合わせる所がほしい。墓とは去った者のためでなく、残された者が己の心に向き合うための装置であるに違いない。ならば墓は近い方がよい。豪華な本堂の改修やら行事やら、高額の寄進を催促する手紙を送ってくるばかりの寺との関係には、いささか疲れてしまった。そう嘆く声が少なくない。不義理を気に病むより、思い立ったら行ける近場で簡素に樹木葬を、という人も多い。親鸞が現代の宗教の姿を見たら、なんと言うだろうか。
(JN) 死への考えは、それぞれの人たちによって違うであろうから、こうすべきであるとは言えない。但し、亡くなった者には関係ないであろう。残った者がどうしたいかである。また、難しいのは子供たちの思いと、それ以外の関係者との思いに違いが生じることがあるので、なかなか思い通りにならない。自分の親についてはどうすれば良いか、簡単に相談もできない。一般的な方法を取るしかないのか。自分は、親鸞聖人のように、どこへでも捨ててくれれば良いのだが、それも迷惑がかかるので、粉々にして河川へでも流してもらおうか。我が精神は、日記に残してと思うが、それも火とともに消え去るのであろう。どう私が思うが、残ったものが行うこと、自由にしていただきましょう。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO75638560U4A810C1MM8000/