『漱石は八十点と九十点。子規は七十四点に八十二点。』

漱石は八十点と九十点。子規は七十四点に八十二点。』<2019年1月11日(金)>
 旧制第一高等中学校の哲学者松本源太郎先生の手帳が発見された。この中身について『筆洗』(190110)は紹介する。「中に漱石、子規ら教え子の『論理学』の試験結果が残っていた。それによれば漱石は八十点と九十点でトップ級。・・・野球や寄席通いに夢中だった子規の点数・・・七十四点に八十二点。・・・一八八八年、八九年の試験らしい。八九年といえば、子規が肺を病んで、初めて血を吐いた年である。・・・つらい時期の試験だったかもしれぬ・・・百三十年前の青春の一こまを想像したくなる価値ある『閻魔帳』だろう」。
 (JN) 学校の成績は文化人たちにとっては関係ないようにも思えるが、その時の二人はただの学生である。大学を目指してもいたろう。それぞれに必死に試験を受けたのであろう。しかし、「一向学校に出てこなかった」子規だがそれなりの成績を取るのはやはり天才か。この天才が命名した「野球」は「ベイスボール」とは違う日本のスポーツとなった。この素晴らし命名、俳句のなせる業か。彼は、病魔に襲われ長生きできなかった。闘病の苦しみの中で、彼はどんな未来を描いていただろうか。「柿」や「野球」の俳句がたくさん生まれたであろうか。