『私たちは先立った人たちに見つめられているのだ・・・』

『私たちは先立った人たちに見つめられているのだ、という…感覚をもつことが必要ではないか』<2018年4月8日(日)>
 映画監督の高畑勲さんの訃報に、『筆洗』(180407)は高畑さんのと彼の作品に想う。「反戦への思いを強くしながら、晩年になるまで人前でこの経験を詳しく語ってない。<語るとして…将来の戦争を食い止める力になるのだろうか>。『火垂るの墓』も「反戦映画ではない」と言った。映画でどれだけの人が戦争の悲惨さを知り、どれだけの親子が戦争について語り合ってきたか。反戦映画の枠を超える名作になった。著書では<私たちは先立った人たちに見つめられているのだ、という…感覚をもつことが必要ではないか>とメッセージを残した。これからは作品の向こうからわれわれを見つめることになる」。
 (JN) 映画をどう考えるか。それは基本は娯楽であろう。そうでないと、売れない。作成関係者は、その映画を多くの人に見てもらう努力をしながら、その作品の中に伝えたいことを織り込んでゆく。アニメとなると子供たちが見る可能性が大きくなる。今できればわかってもらいたいことから、大人になってから気付いてほしいことまで、盛り込んでゆく。私は、高畑さんの作品を劇場では見たことより、どちらかといえば、十代のころ日曜日の19時30分からの漫画劇場であったろうか。悲しい話に弱い私。見ていられない悲しいこともあった。なぜに、こんな無慈悲な、そのころならなんという表現を使っていたか、主人公がなぜこんな目に合うのか、世の中はどうなっているのか。見ていた子供たちは、何と思い、今、どう考えていようか。貧困、戦争、病気等々、何とかしたと思い、大人になっていったが。思いをそのままに実現するのは難しかった。世の中、戦争をしたい人たちがまだ多くいる。兵器で幸せを得られるのか。高畑さんは亡くなられたがその意思は残ったものが継いでいかねばならない。ありがとうございました高畑さん。