<2016年8月18日(木)>
『自分の歩くところは狭いが、耳や心に感じる天地は広い』
「3日前、地下鉄で盲導犬と歩いていた目の不自由な男性が駅ホームから転落、電車にはねられて亡くなった」。盲目の人の事故について、「余録」(毎日/16/8/18)は、幼くして失明した箏曲家の宮城道雄の例を挙げている。目の見える家人には分からぬ音を聞き分けられる。しかし、「東海道線の刈谷駅近くで夜行の急行列車から転落して亡くなった。日ごろから音に敏感な一方、物に対する勘は自ら『非常に悪い』とぼやいていた当人だった。いつ誰であれ転落しそうな人を見たら声をかけるのはもちろんだ。『自分の歩くところは狭いが、耳や心に感じる天地は広い』も宮城の言葉である。目の不自由な人にとってホームがどれだけ怖い場所か。少しの想像力が人の安心して歩けるところを広げていく。」
私たちはお互いの不得意とするところをどこまで支援し合えるのか、できるのか。これは各々壁の中に入り込むようで難しい。しかし、支援要請を待つような態度ではだめなのだろう。他人の不自由は見えない中で、気が付いたら手を差し伸べるということは、心の訓練が必要なのだろうか。自分自身、非常に気が利かない者であり、悔やむことが多い。特に、気が付きながら何もできなかったことが、問題である。お恥ずかしい話だが、自分に勇気が必要だ。できることからして行こうというが、それでは何時まで経ってもできない。都心では多くの人間がいるので、誰かがやってくれるだろうという状態にもある。誰もがやらねばならないという心を持つこと年寄りから子供まで持てる社会にすることで日本が変わるのではないか。そして、私たちの心も広がっていく。(JN)