『スポーツの栄光がフェアなルールの順守を求めてきた努力の・・・』

『スポーツの栄光がフェアなルールの順守を求めてきた努力の結晶である』
 「14世紀初め、英国王エドワード1世はテニスなどの球技を禁止した。ご推察通り賭博に利用されたためで」ある。「余録」(毎日新聞/2016/4/12)は、スポーツ選手の賭博問題に意見する。「運とチャンスを争う遊びは他の動物にない人間特有のものだとカイヨワはいう。最後は偶然が勝敗を左右するスポーツと賭け事とはかつては表裏一体の関係にあった。だからこそフェアプレーが説かれ、ルールによる自立を果たしてきた近代スポーツだった。スポーツの栄光がフェアなルールの順守を求めてきた努力の結晶であることを。その栄光を受け継ぐことのできる復帰を多くの人が待つことを。」
 スポーツである程度の力をつけたものは、体だけでなく心も鍛えられ、潔白な心の持ち主になると思っていたと言えば、嘘になるかもしれないが、そう期待している。でも、その能力の水準ははるかに高いところにあり、そこまでに辿り着ける者はそういないのであろうか。しかし、「余禄」が指摘しているように、ルール合ってのスポーツである。審判の見えないところで平気で、ルールを犯すとは無能の証拠であろうか。こういった事件があると、私たちは子供たちに説明ができなければならない。それが説明できない者は、やはり、ルールを犯しているのかな。(JN)