『こみ合へる電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの・・・』

『こみ合へる電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの我のいとしさ』
 「石川啄木は、創作の一方で新聞社で校正係として勤務していた。通勤電車の中で『ちぢこまる』自分がいとおしく、褒めてやりたかった。」「筆洗」(東京新聞/2016/1/11)は、成人の日に当たり啄木や井上ひさしから考える。「若い人には大人や社会の当然が重荷でもあるが、重荷にちぢこまった分、苦労した分、自分や自分の生活が『いとおしく』なる。このいとおしさを手に入れれば、生きることは、ぐっと楽にもなる。井上ひさしに娘さんが聞いた。『どうしてパパはそんなに小さくなって電車に乗るの?』。人の迷惑にならぬよう。それが社会性だと教えたそうだ。これも大人への切符の一枚。大半の大人は、大人になる訓練を続けている。たぶん一生」。
 子どものころは、電車も一つの遊び場であった。大きな顔をしていた。小学校のころは電車通学をしていたため、走り回る声を出すなど、子供にはある程度が許されていたが、度を超すとお怒りをいただいた。それが、段々と年齢を増し、知らぬ間にちぢこまっていたかもしれない。この時間も自由がなくなり、必死に何かにこの時間を使う。車内と別世界の塊になったりしている。その緊張が緩むと、我いとおしいかな、目を瞑たり、上を見たりして考え、白日夢へ。世の中の重荷から、ちょいとトリップをもする。ふと気が付けば、老婦人が目の前に。ここは大人は席を譲らねばならぬ、否、若者に気付かせることができぬか。それは彼らへの迷惑か? (JN)