ウトウトして? 国語の教科書の挿絵の少女の手が

ウトウトして? 国語の教科書の挿絵の少女の手が
 三省堂の教科書の挿絵のミスに対して、東京新聞「筆洗」(2015年6月25日)は、ただこき下ろすなかれと。
 「名彫刻家だった父親の死後、せがれが跡を継いだが、どうにも腕が悪い。父親に世話になった店の主人が恩返しで、せがれの不出来な作品を買い取ってきたが、ある日、せがれが持ってきた作品を見て堪忍袋の緒が切れる。彫ったのは馬の足が三本しかない。『ウトウトしていて一本落としてしまった』。こっちの話は一本増やしてしまった。国語の教科書の挿絵。少女の腕が三本あるように誤って描き、一万冊弱を回収する騒ぎになった。よほどウトウトしていたか。この件で子らに教えることがあるとすれば、間違いは誰にでもあるいうことか。あの人情噺で不器用なせがれは母の命をかけた励ましに奮起、父をしのぐ名工となる。教科書が間違えたと笑い、こき下ろすよりも『もうしないでね』と、静かに声を掛ける方がよほど失敗した人の了見を変えるということもあろう。」
 人は失敗により世界を広げてきた。この今回の失敗、教科書の挿絵の少女に手を一本加えるようなことをしてしまったことには、また何を得ることができたのであろうか。多くの人の手を経て出来上がるもの思わぬ落とし穴か、絵という作品へのチェックが抜けていたのか。ものをつくるのに様々な機械化が進み、そのスピードに人間がついていけなくなったのか。単に、ウトウトしていたのか。三省堂は、この尊い経験をどのように活かしていくのであるか、教えていただきたい。失敗ばかりの私には、他人事ではない。