「残念な」生徒が活躍する「残念系」の話が売れている

(日経「春秋」2014/12/1付) まもなく2014年も終わる。10年代も前半5年が過ぎ、折り返し点を回るわけだ。10年代とはどんな時代か。若者文化に詳しい評論家、さやわか氏は、今年出版した「一〇年代文化論」で「残念」というキーワードを挙げる。高校生などが好んで読むライトノベルで近年、美男子なのに性格はオタクといった「残念な」生徒が活躍する「残念系」の話が売れている。お笑いコンビでは「残念な(つまらない)方」に脚光があたる。「ダメ」といえば救いがないが「残念」はそこはかとなく共感や同情を感じさせる。人間は本来、多様なものだ。たいていの人は長所と短所を抱えて生きている。でこぼこは、そのまま受け入れて楽しめばいい。1974年生まれのさやわか氏は、最近の若者文化にそうした「清濁併せのむ」おおらかさを読み取る。この感性が10年代なのだという。若者が作る文化には2つの共通点がある。大人社会に欠けたもの、失われたものを補おうとすること。それゆえ年長者には理解されないまま支持を広げることだ。今の若者文化が少数派や「欠点」の持ち主を好んで描き、自由や寛容の価値を訴えているとしたら、それは何に対する異議申し立てなのだろう。
(JN) 少数派や「欠点」の持ち主を若者は、本当はどう思っているのか。日本は、幼い頃より皆とできるだけ同じにしていないと弾かれる社会において、若者たちは「清濁併せのむ」ことができるのでろうか。他人の残念を自分にとっては価値あるものと考えている訳ではないであろうが、プアーな者は、よりプアーな者を欲するのが常ではなかろうか。そして、自分も救いたいから「ダメ」ではなく「残念」なのであろう。そう考えるのは勝手な考えであろうか。似通った仲間どうして価値観を共有し「残念」がる狭い世界から、様々な価値観を認め合い褒め合うことができないであろうか。それは、若者に望む前に、大人社会を変えることであろうが、残念ながらその大人社会は若者社会の延長上にある。とにかく、「残念」それを「残念」という勝手な枠に入れないことだ。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO80328650R01C14A2MM8000/