誰にも改まるものがある。年の終わりのありがたさ

(日経「春秋」2013/12/31付) 「海辺のきたない宿屋、逃避した大みそかである。窓から暗い海を見れば、漁船の灯が点々、小さい灯台が間遠に光をまわしていて、わびしさこの上もない」(幸田文)。一年をまたとにもかくにも生きてきて、最後の日、人はなにがしかの感慨を胸にし、それぞれの仕方で大みそかと向き合い、また、この日をやり過ごそうとするのだろう。「風天」の号で俳句を詠んだ渥美清「テレビ消しひとりだった大みそか」。歌人道浦母都子さん「欠け茶碗(ぢゃわん)三和土(たたき)に叩きつけて割(さ)くわれの一人の年越しの宴」。どちらも、個と孤が対で迫ってくるふうである。海辺の宿屋、雪が降って翌朝は真白き新年になった。人はなく、雪はまだ汚れていなかった。それを見ていたら男は気持ちが改まり、人の踏まない先にこの雪を踏んで帰ろうという気になったという。きょう、明日もただの二日に違いはないが、誰にも改まるものがある。年の終わりのありがたさである。
(JN) いよいよ大晦日、いつもと同じ一日であるが大事な振り返りの一日でもある。まずは家族とそばを食べ、それから未来への希望のため、過去を忘れるためにも、まずはこの一年の最後の時間は一人部屋に籠り思う。独りで改まり、そして、0時過ぎれば家族とともに新年を祝う。正月のゆっくりとした朝、旅行以外ではありえない一家そろった朝食で餅を食べよう。家族みんなで神社に行く。なんでこれは家族の一体感である。そのあと、華屋与兵衛へ行き、なかなか注文が来ないので、珍しく家族の会話が長く続く、そんなことを繰り返す大晦日と正月である。とにかく改まった年を迎えられる。時間に切れ目をつけてくれた先人に感謝したい。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO64770810R31C13A2MM8000/