欠伸は人生に欠かせない

(日経「春秋」2014/4/27付) 「みんな欠伸(あくび)をしていた」――。三島由紀夫の小説「鏡子の家」の、よく知られた書き出しである。男たちの抱える退屈さと時代の空気を、三島は冒頭の一文で言いあらわした。近ごろの陽気だとうっかり人前で大あくびをしそうになり、慌てて口を覆うことがある。「欠」という字はそれだけであくびのことで、口を開けて立つ人を横から見た形だという。しかし「欠」といえば、欠陥、欠如、欠落などと、世間の不祥事を語るときにこの文字はしょっちゅう登場する。こちらの意味の「欠」は本来は「缺」という字だったが、かつて当用漢字を決めるときにあくびの「欠」で代用させた。せめて古典にこの字の本当の味わいを求めようと興膳宏さんの「漢語日暦(ひごよみ)」をひもとけば、白居易の朝寝の詩がある。いわく「枕を転じて重ねて安寝し、頭(こうべ)を廻(めぐ)らして一たび欠伸(けんしん)す」。こういう「欠」が人生に欠かせない。
(JN) 退屈だから、欠伸をするのか。眠気を覚ますために、欠伸をするのか。春は、欠伸を多くするが、これは気持ちが良いからか。連休明けの授業は、欠伸が多分沢山出るであろう。多分、切羽詰まっている時は、欠伸などしている暇も無い。年中、欠伸をしてはアホになってしまいますが、真面目な方々には、できだけ欠伸をしていただき、心の中の欠けている所へ空気を流し込んで、伸び伸びしましょう。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO70482400X20C14A4MM8000/