漢字は有意義なことを学ぶのに使うべき時間を無駄にする

(日経「春秋」2014/3/23付) 1919年(大正8年)、フィンランドが日本に公館を開設した。初代公使とともに未知の国へ向かう17歳の娘に、伊集院彦吉、のちに外相も務めた外交官は、「日本語は難しすぎてお父さんは勉強を放棄する。賭けてもいい」と。3人は日本で再会し、「この賭けに負けたのは初めてだ」と伊集院。公使が言語学者でもあった。そのラムステットが「日本語は学ぶには世界でも非常にやさしい部類に入るが、ただ書くことに関しては考え得るかぎり最も難しい言葉の一つだ」という見立てを残している。ASEANの日本語学習を応援しようと、国際交流基金が2020年までに3千人を派遣するそうだ。「漢字を覚えるため、より有意義なことを学ぶのに使うべき時間を何年も無駄にする」とラムステットが述懐した100年近く前に比べ、日本語は少しやさしくはなった。それでもなお難物である。なればこそ、伊集院を再びギャフンと言わせるような若者を東南アジアで育てるお手伝い、というのも楽しそうではないか。
(JN) 日本の文字から感じが消えれば、ワープロ漢字変換機能が必要なくなり、パソコンは軽くなるであろう。漢字一つ一つが絵でるので、いっぱい絵に変換して行くことはコンピュータも大変である。私たち日本に住む者は、子どもの時からこの漢字を覚えていくことが大変である。敗戦後、学校教育から漢字教育が消えていたら、今の日本はどうなっていいたか。梅棹忠夫氏がローマ字でのカード作成などを行ったりしていたが、Moshimo kannji wo nakushite roumaji wo tsukau tonareba sore ha(wa) taihennda. narenai tameka yominikui. では、ひらがなをつかうのは、どうであろうか。すこしは、よみやすい。遥か昔、源氏物語はひらがなで書かれたようであるように、漢字にこだわらなくとも良いのかもしれない。世界での共有されている文字は、ローマ字であるので、Yahari roumaji wo tsukau to kakukoto de nihongo ga kanntann ni naru kamoshirenai.
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO68724420T20C14A3MM8000/