犠牲という問題が正面からとりあげられていない

  • (日経/春秋 2012/7/24付) 宗教学者山折哲雄さんが日曜の連載中の「危機と日本人」に、頬をひっぱたかれたような気がしたことがある。その痛みが、きのう発表された福島第1原発事故についての政府事故調査委員会の最終報告を見てよみがえった。大切な話がやはり落ちている――。調査のなかで焦点になってきたのが「全面撤退か部分撤退か」だった。東電は「部分」の意図だったと繰り返し、官邸は「全面」と受け止めたと言い張った。水掛け論のなかで「犠牲という問題が正面からとりあげられていない」と山折さんは指摘した(6月24日付)。そうした危機的な論点は最後まで隠されたままだった、と山折さんは厳しかった。4つの報告を並べても、例えば、ぎりぎりの場面で誰が他人に犠牲になれと強いることができるのか、そもそも強制はできるのか、答えは見つからない。突きつめて考えた跡もない。そして山折さんの矛先はメディアの報道にも向かっていた。頬の痛みがよみがえった理由である。
  • (JN)弱き者は声を上げることができない。犠牲者となるだけなのであろうか。本来、弱き者は守られ、その責任を取るのは責任者であろう。そのために、指揮権があるのであり手当も受けている。しかし、残念ながら現状は、責任者は識見をもたず、責任も持たずである。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO44080520U2A720C1MM8000/