『きょうよりかあしたはできるようにするから もう・・・』

『きょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください』<2018年6月8日(金)>
 船戸結愛ちゃんがひらがなで綴っていたノートの各紙は思いを記す。「お願いの相手は本来なら自分を愛してくれるはずの両親だ。・・・虐待を生む背景の一つに、親の孤立がある。それはまた児相の姿と二重写しに見える。児相もひとりで問題を抱え込まず、助けを求めればいい。面談を拒む親がいれば警察にも同行を頼み、人手が足りなければ大声で窮状を叫べばいい」(『春秋』(180608))。「書き写していても胸が苦しくなる船戸結愛ちゃんの“てがみ”である。・・・思わず神様もなじりたくなるむごさだが、・・・神様には覚えた字で存分にあそぶ喜びを記せる天国へ、結愛ちゃんを連れて行ってあげてほしい」(『余録』(180608))。「これほど痛ましい子どもの『手紙』があるだろうか。・・・覚えたての平仮名だそうだ。愛情を取り戻そうとする娘に親は冷酷な仕打ちで応じている。気持ちを字で表した娘の成長には、何も感じなかったのか。こんな冷血に打つ手はあったのかという疑問も覚える。<ゆるして>が切なく響く。せめてよく頑張ったねと声をかけられたら」(『筆洗』(180609))。
 (JN) このニュースを昨日は年何度テレビで見たか。そのたびに、悲しみと怒りと虚しさを。なぜにこんな目に合うのか。なぜにこんなことをするのか。悲しくて遣り切れない。耐えられず、チャンネルを変えても、このニュース。ちゃんと見なきゃならないニュースである。「結愛ちゃん、ごめんね。こんな冷たい社会にしてしまって、ごめんなさい」。謝るしか能がないのか。現状を許している限り、変わらないし、自分たちだけが幸せであれば良いと思っている限り、幸せにはなれない。