『学生の表現活動をあまりしゃくし定規に規制しては・・・』

『学生の表現活動をあまりしゃくし定規に規制しては収拾がつかなくなろう』<2018年5月20日(日)>
 「かつては全国どこの大学へ行っても、この手のタテカンが散見された」と『春秋』(180520)は、最近の京大タテカン騒ぎに思う。「ゲバ棒ゲバ字も昨今はとんと目にしない。とはいえタテカンそのものはかろうじて命脈を保ち、そのいちばんの名所が京都大の吉田キャンパス周辺だった。・・・京都市の屋外広告物条例などに触れるとして撤去に・・・。抵抗する学生らが再設置、・・・。条例に例外なしと市も譲らず、久々に学園紛争めいた展開である。・・・学生の表現活動をあまりしゃくし定規に規制しては収拾がつかなくなろう。銀閣寺にもほど近い、京都らしい場所だ。色とりどりの今風タテカンも含めて、京都らしい場所ではないか」。
 (JN) 「新人類」寄りでノンポリの私には、「ゲバ字」も「ゲバ棒」も縁遠かった。それらは、目の前にあり、学園が変わってきた時代にいた。それをなし崩しにしていった世代である。中学生のころは、テレビ画面での安田講堂での出来事を固唾を呑んでみていた。校則の拘束され、体中が梗塞状態であった中学から、自由な高等学校生活となった。これは、「進歩的学生」や「ゲバルト」の学生運動が高校まで及んでいたおかげであった。タテカンはなかったが、長髪とジーンズの高校生活の中で、自分たちが自由をどの程度にしていくか、それを考えねばならなかった。自由な私たちは、タバコ、酒、薬、シンナー、パチンコ等々の問題を起こしながら、学んでいた。学園という空間はルールに頼って、構成員を縛るところではない。文化的に倫理的に構成員がそれぞれに考えていくべきところである。