『三十二万三千八百八件。・・・・・のいじめの認知件数である』

『三十二万三千八百八件。昨年度の全国の国公私立小中高、特別支援学校でのいじめの認知件数である』<2017年10月30日(月)>
 「この日のために、パンツもシャツも全部新しくしてきました。ネクタイをする、しないのかにどんな意味があるのか」。『筆洗』(171030)は、作家、灰谷健次郎さんの小学校教員時代を紹介し、いじめ問題を考える。「本気と本音でぶつかり合わねばならぬ数字である。三十二万三千八百八件。いじめの認知件数、前年度より約四割増。いじめの急増は歓迎できぬが、増えた数字はどんなに軽微なものも、いじめとして見逃さぬという決意の表れでもあろう。見えにくい実態にわずかとはいえ、近づいたと信じたい。いじめを少なく見せ掛けるネクタイを締めた数字はいらぬ。約三十二万。本当の数字をかみしめ、一件でも減らしていきたい。ここからである」。
 (JN) 学校でのいじめは、自分たちの子どものころと、どう違うのか、件数は増えているのか、同程度か、いや減っているのか。どちらにしても、三十二万三千八百八件という、この件数を見ると、学校現場とはいかなるものか、理解に苦しんでしまう。何がこうさせるのであろうか。大人は何をしているのか。と素人はすぐにそこへ頭が行く。そもそもいじめを行う、その原因は何だろうか。互いの理解不足、おんなじでない事への無理解、他人への同質要求するのか。自分が弱者や少数派にならないようにするのか。これは日本の国民の縮図であろうか。子どもは大人の世界から生き方を学んでいる。大人たちが変わらないと、子どもたちは変わらないし、今の子供体がこれから大人になる。さて、どうすればいいのだ。まずは私たち一人一人が異質排除をせず、個々の心を大事にすることであり、それは自分が他人と同じにすることから脱出することではないか。