「聞く」ではなく「聴く」べき話

(日経「春秋」2015/1/6付) 昨年の暮れ、2人の語り部が亡くなった。1人は長崎で被爆した片岡ツヨさん。もう1人は女学校当時、沖縄戦ひめゆり学徒隊として動員された宮城喜久子さん。語り部の人たちの高齢化を止めることはできない。そうわかってはいても、戦後70年を迎えた年の初め、相次いで接した訃報に切迫感のようなものをおぼえる。苦難の道を歩んだ先人たちの言葉は、書物や映像とはまた違った迫力で、受けとる側の胸に響く。「聞く」ではなく「聴く」べき話が、まだまだたくさんあるに違いない。思えば日常を生きる私たちにだって、次の世代に語り伝えられる話があるはずだ。ちょっとだけ気持ちを高めて、会社の後輩に自らの奮闘記や失敗談を、家で子どもに若いころの夢や武勇伝を語ってみてはどうだろうか。携帯電話やメールが当たり前の世の中だからこそ、顔を見ながら語り合い、耳を傾け合っていきたい。
(JN) 現場にいた者の語りには、他人事ではないその現実、現象だけの伝達ではなく、その人の感性と知性でで捉えた生々しさを我々に与える。それは、場合によってはデフォルメされて伝わることもあろうが、語りの感性・知性と聴講者の感性・知性とのぶつかり合いであり、そこのまた新たな何かを生み出すのである。一人の語り部、一代の語り部には限りがあるので、私たちはその語りをそれぞれの能力で引き継いでいかねばならない。それは、戦争や震災から職場や家庭に至るまで、それぞれのところでなされることである。想えば、子どもの頃、伯父や父からの戦争体験や戦後の苦労は、自分の考え方に影響を与えている。語りは、子供たちの成長時に継続的に様々な場面で行われていた。それが、今どうなっているのであろうか。私たちは、一緒にゆっくりと話す、そして傾聴する、ことを忘れそうである。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO81601440W5A100C1MM8000/