裁判所が無頓着、無責任だった証し

(日経「春秋」2014/12/6付) 町奉行の下で市中の見回りや取り調べにあたる与力に辣腕でならす男がいた。ある日、家に帰ると下男を「金を盗んだな」と問い詰めた。無実は承知のうえである。もちろん下男は否認したが、厳しい追及にやがて罪を認めてしまう。自慢の強引な吟味が冤罪(えんざい)を生むのにショックを受けた与力は、職を辞し隠居したという(国立公文書館で開催中の「江戸時代の罪と罰」展)。いまでいうなら、「人質司法」見直しをめぐる議論もその一つだろう。逮捕した容疑者や裁判が始まった被告の身柄を捜査当局が長い間拘束する。その間に都合よく供述させたり、否認する限りは自由になれないと脅したりする。そんな批判が「人質司法」の言葉にはこもる。逃げたり証拠を隠したりの可能性を吟味して拘束の是非を決めるはずの裁判所も、検察の言いなりだといわれてきた。容疑者の身柄拘束を求める検察の訴えを退ける割合はほぼ毎年上がり続け、11年間で0.1%から1.6%になったという。裁判所が無頓着、無責任だった証しである。
(JN)裁判所とはどんな立場か。行政機関ではないのに、検察の言いなりであったのは、日本全体が、まだ民主主義を理解できていないという事なのであろうか。自分たちの業績を上げるために弱い者をいじめ、心理的に追い詰めて、こちら側の有利の自供を仕立てあげる。正義の味方のすることではない。一事が万事ではなかろうが、真面目に取り組んでいる警察官たちには迷惑な話である。とにかく、裁判所は、ちゃんと仕事をして、国民を守るべきであろう。冤罪がいつ我が身に降り懸かるかわからない、そんな社会では安心して生活ができないどこぞの独裁国家と変わらないであろう。それだけまだ日本は御上が主人公の国家なのであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO80584980W4A201C1MM8000/