自由な情報流通と「忘れられる権利」を、どう共存させるか。

(日経「春秋」2014/10/12付) 中年女性が、母校の中学校を訪れる。就職することになり、最終学歴である中学の成績証明書を求められたという。それは決していい内容ではない。教師は言う。「すでに破棄したという書類を作りましょう」。当時の成績保管期間は20年。後に保管期間は5年に短縮された。公的文書なら閲覧制限や破棄で現在を守る手もある。やっかいなのはネットだ。自分を巡るさまざまな記録が、時を超えて拡散する。中には事実無根の文章もある。法や制度は追いつけないままだ。グーグルで自分の名を調べると、犯罪に関わったかのような投稿が現れる。これを止めさせたいと男性が訴え、東京地裁は削除を命じる判断を出した。自民党は元恋人などの性的画像をネットに流すことを防ぐ法案を準備している。自由な情報流通と「忘れられる権利」を、どう共存させるか。われわれの知恵が試される。
(JN) 私たちは、過去には様々なことを残してきている。それは、時により、良い理解をされることもあり、また、悪く理化されることもある。一度ネットに載れば、良いものも悪いものも、世界中に届き、それは、未来までも届く。しかし、良いものは概して騒がれず、悪いものが世間から楽しまれる。これは、ネット上のことではなく、様々な場面であることだろうが、ネット上では、手軽に速やかにそういうことを知ろうと思わなくても、一緒にやってきてしまう。地球上に彷徨うこの情報については、それを拾い出すのは自由であるが、それを正確な情報であるのか責任を持て扱わねばならない。それを法律で規制ができるのか、して良いのか。私たち自身の人の不幸を喜ぶ精神がある限り、法規制がされても永遠の課題であろう。私たちには、倫理というものがないのか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO78330970S4A011C1MM8000/