全国学力テストをめぐる各地の一喜一憂ぶり

(日経「春秋」2014/8/27付) 東京大学の入試では0.0001点の差で運命が分かれることがある。今春の文科1類(前期)の合格最低点は332.7444点である。そこには究極の公平さがあるが、人間の能力をみるモノサシとしてはいささか安易だろう。そんな声を背に、昨今は入試改革の動きが慌ただしい。センター試験に代わる「達成度テスト」では受験機会を複数化し、成績は段階別の表示にとどめるそうだ。くだんの東大も2016年度から推薦入試枠を設けるという。もっともその一方で、文部科学省の全国学力テストをめぐる各地の一喜一憂ぶりなど昔ながらの風景である。今年から学校別の成績公表も可能になっただけに点取り競争が激化しかねない。ペーパーテストの成績は子どもの能力の大きな指標だが、決してそれがすべてではない。当たり前の事実に気づいて大学入試改革は進むけれど、点数なるものへの世の中の意識にはなかなかしぶといものがある。こんどの学力テストの正答率はA校よりB校が0.0001%リード、などという話が出てこなければいいが。
(JN) 勉強はできるに越したことはないし、その努力があるから成績が良かろうが、それが人間としての価値評価ではない。ドイツのある哲学者は、量的数値について生命なき抽象的統一であると言っているように、我々生命体の価値を全面的に判断するものとはならない。人はそれ自体が多様であり、またその置かれている環境も多様である。それを統一的物差しで測ることは如何なものであろうか。個人としては価値なき全国学力試験であるが、お国としては便利に分類していく尺度となる。この好都合の尺度に我々は踊らされることのないようにせねばならない。また、自分たちの代表者を選ぶ際には、気をつけねばならない。このようなことに価値を見出し国を動かすような為政者では、国民不在の政である。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO76212910X20C14A8MM8000/