録音・録画する事件の範囲をめぐる法制審議会の議論は3年前に始まり

(日経「春秋」2014/5/3付) 「むきあって同じお茶すするポリと不良」。風天の号で俳句を詠んだ俳優の渥美清にこんな一句がある。そこにカメラやレコーダーがあると空気はどう変わるのか。警察や検察の取り調べを録音・録画すると、ひいては冤罪(えんざい)を防ぐことになる。一方、調べる側からは「相手が本当のことを話さなくなり、真相の解明が難しくなる」と。録音・録画する事件の範囲をめぐる法制審議会の議論は3年前に始まり、まだまとまらない。風天の句の続きだ。警察官が自ら少年期の不幸な境遇のことなどぽつりぽつり語り始め、不良も心を開いていく――。そんな筋書きだろうか。しかし、録音・録画するなら私事を明かしたりはできないという警察官がいるそうだ。筋を通す大切さは重々承知してなお知る、その難しさの一例である。
(JN) 密室でのカツ丼の人情世界は、作り上げられたドラマでのことであり、私たちは現実の世界での人権と間違えのない根拠だった取り調べの枠組みをつくらねばならない。作り出された記憶が記録になるのではなく、そこには正確な記録が必要である。それがビデオ記録になろうが、これはもちろん取調べ側の細工もかのであろうが、基本、中立的記録である。それはまた容赦のない隠しようのない記録である。そこまでしなくてはならない、この信用できない状況になっていることが悲しい。私たちを守ってくれると思っていた人たちが信用できないなんて、残念この上ない。警察では、何が優先されるのか、市民の安全よりも、自分のポイントや警察のメンツか。憧れのお巡りさんたちが、内部の問題で自殺をするようなこの現実をどう理解すればよいのか。取調室にビデオを入れようが、この根本を治さない限り、取調室以外での出来事は、そのままではないか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO70739930T00C14A5MM8000/