土曜日の午後3時36分、福島第1原発の1号機で水素爆発が起きた

(日経「春秋」2014/3/12付) これといったニュースもない金曜日の午後だった。あの揺れはそのとき始まり、ものみな震えだしたのを覚えている。3.11の衝撃は、震源から離れた地域をもまず「体感」として襲ったのだ。けれど3.12の、もうひとつの衝撃には揺れも音もなかった。土曜日の午後3時36分、福島第1原発の1号機で水素爆発が起きた。これは何だろう? 以後のすさまじい事態を、どれだけの人が想像し得たことか。目に見えにくく、体感を得にくく、それでいて戦慄をひたひたと募らせる原子力災害の脅威はなお続いている。ひとたび引き起こせばかくなる悲劇をもたらす事故の実相を、日本は、わたしたちは3年をかけてすこしずつ知った。原発は即ゼロ、「福島」を乗りこえて原発新設、二項対立の議論は歩み寄ることなく続くが、日本のエネルギー事情と、事故が招いた残酷と、2つの現実をともに見据えて道を探すほかあるまい。3.12の衝撃を、未来に生かす知恵こそがほしい。
(JN) 原発は完璧に安全であると信じていた。疑うことを知らないことは愚かである。愚かさは、人の悲劇を生む。考えてみれば、安全ならば、東京湾に作った手良いであろう。でも、そうはしなかった。どちらかの敵国から、ミサイル撃ち込まれたらどうなるのか。大変な惨事が起きるのであろうか。原発の安全とは、何を根拠として安全と言っているのか。とにかく、起きることだから起きたのである。想定外などではない。想定できなかったことが、愚かなのである。或いは想定できていたのに、隠されていたのかもしれない。疑いは切りがないが、疑いから物事は改善される。我々は、鵜呑みの良い市民であってはならない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO68148820S4A310C1MM8000/