市民の自由は権力の座にある者の善意など当てにはできない

(日経「春秋」2014/1/21付) 先週末、オバマ米大統領が司法省で、「市民の自由は権力の座にある者の善意など当てにはできない。自由が当てにするのは、権力を持つ者を縛る法律である。我々の政府という仕組みは、そういう前提のうえにつくられている」。指導力にも人気にも陰りがみえるオバマ氏をさらに痛めつけたのが、国家安全保障局(NSA)による膨大な個人情報収集の実態だろう。「もう同盟国の首脳を盗聴しない」などというものの、案の評判は「中途半端だ」と芳しくない。国の安全とプライバシーのバランスは、おそらく民主主義を標榜する世界がいま向き合う超難題の一つなのだ。「権力者たちはもう『信用してほしい。情報を悪用はしないから』とは言えない。大統領はそう悟った」と。「信用してほしい」「大丈夫」。日本でも政治家の言を耳にする。思えば都合のいい「善意」である。それがどれだけ市民の当てになるのか、大統領に言われずとも分かる。
(JN) 権力を持つ者は権力下のものを全て自分の自由にしないと気が済まないであろう。そしてそれを基に更なる権力の保持をしようとするのであるから、信用できるものではない。そして、弱き者たちは弱みを押さえられのである。オバマ氏曰く「市民の自由は権力の座にある者の善意など当てにはできない。自由が当てにするのは、権力を持つ者を縛る法律である。我々の政府という仕組みは、そういう前提のうえにつくられている」と。わかっているのであるが、弱者たちは親方をあてにし、小さな自由を手にしようとするが、それすら抑えられた自由である。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO65615840R20C14A1MM8000/