暑くてもなんでも、雲はもう秋の顔である

(日経「春秋」2013/8/25付) 「人まじわりすると血がにじみますから、未明の水を眺めてしばらくすごしたいと思っています」。釣り好きの先輩作家、井伏鱒二にあてた開高健の手紙。たとえ血がにじむほどの傷を負っていなくても、とかくに人の世は住みにくい。何かをぼんやり眺めていたいと思うことは誰にもあろう。8月もあと一週間、夏の終わりにそんな時を持つのもいい。開高の手紙をみて思い出したのが八木重吉、昭和初年に29歳で早世した詩人の作品は短いものが多い。「草に すわる」は「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」で全文。「雲」は「くものある日/くもは かなしい/くものない日/そらは さびしい」。「いちばんいい/わたしのかんがえと/あの雲と/おんなじくらいすきだ」。高村光太郎は「このきよい、心のしたたりのような詩はいかなる世代の中にあっても死なない」と重吉の作品を評した。草に座ってぼんやり雲を眺める。暑くてもなんでも、雲はもう秋の顔である。
(JN) 貧乏性で、がっついているので、まあ余裕がないこの私。過日、独り京都で一日ゆっくりを考えたが、秋の近づく気配にこの夏の宿題や職場の机を考え、ゆっくりとできず、そそくさと観光地めぐりをしたようである。南禅寺のどこかで、ゆっくりと雲を眺めていたかった。今度こそ、蜻蛉が舞う中、iPadを手放し、文庫一冊持って、否、手ぶらでころがっていようか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO58908690V20C13A8MM8000/