果てしない憎悪の犠牲をも運命と呼ぶほかないのだろうか

  • (日経/春秋 2012/8/22付) 1942年の夏、ニューヨークの下宿で朝寝を決め込んでいたロバート・キャパのもとに、ある週刊誌から緊急の戦場取材を求める手紙が届く。後年の手記「ちょっとピンぼけ」の出だしである。「運命に起こされて」。あわただしく北アフリカ戦線に向かったこの顛末(てんまつ)を、キャパはそう表現している。内戦のシリアで落命したジャーナリストの山本美香さんもまた、運命に突き動かされて戦場を駆けた人であったろう。きっかけは96年、タリバン政権下のアフガニスタンを訪れた体験だった。そこで会った人々の過酷な日常。危険には誰よりも敏感だったはずの山本さんだが、シリアの戦火は、そんなベテランの命も奪った。戦争を憎み、その非道を写し続けたキャパは、のちにベトナムで地雷に触れて散った。この地球上に渦巻く、果てしない憎悪の犠牲をも運命と呼ぶほかないのだろうか。
  • (JN)今の日本人にはなかなか理解できない民族間の争い。そんな不感症の我々に、命を懸けて報道を行ってきた山本さんの心を受け止めねばならない。流血の無い方法を取ることができないのか。男たちは誇りをもって戦っているのであろうが、弱いものが常に犠牲になる。暴力は戦場だけでない。家庭内や学校内にも起きている。運命であると放っておくことではない。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO45257260S2A820C1MM8000/