『「父の日」に幸あらんことを。そしてまた明日から・・・』

『「父の日」に幸あらんことを。そしてまた明日からである。』<2018年6月17日(日)>
 「父の日」に、『筆洗』(180617)は、吉野弘さんの詩「漢字喜遊曲」を読む。<母は舟の一族だろうか。/こころもち傾いているのは/どんな荷物を積みすぎているせいか>。<幸いの中の人知れぬ辛さ/そして時に/辛さを忘れてもいる幸い>。<舞という字は/無に似ている>。「なぜか、あの詩の中には『父』の字について、触れられていない。・・・なにかないかとこじつければ、『釜』という字の中に『父』がいる。・・・<釜のフタをあけるため金を大事に抱えた父がいる>となるか。よく見れば、『母』が苦労で傾いているように『父』はこころもち踏ん張っているようである。育児や家事での母たちからの評判はまだまだかもしれぬが、父親も辛さの中の幸のために踏ん張るか。『父の日』に幸あらんことを。そしてまた明日からである」。
 (JN) 「父の日」というものはなぜあるのか。なぜこの日か。どうも、国によっても違いがあるようだ。また、始まりも諸説ある。米国が正式に定めたのは1972年らしい。それ以降、日本にもやってきたのであろうか。自分の家庭の記憶では、1990年頃からである。自分の父親に贈り物をするなど思いもよらない行動であった。親不孝者の私は妻任せであるが、30年近く「父の日」は存在している。次に、贈り物を受けるようになったのは、長男が幼稚園に入ってからであろうか。幼稚園の保護者会とセットになっていたであろうか。幼稚園の保育を見学に行き、また子供と一緒に何かを一緒に作る。若い先生がほめてくれるし、楽しい時であった。一昨日は母から父の日のプレゼントが届いたと、お礼のメールが届いた。今日は息子夫婦が来るという。こういう機会は必要である。でも、主役はお母さんかもしれない。