『人が日記を始める理由は「人生に何らかの展開が・・・』

『人が日記を始める理由は「人生に何らかの展開があると予想される場合」』<2018年1月3日(水)>
 井荷風、「正月元日。例によつて為す事もなし」「正月三日。灯下に粥(かゆ)を煮、葡萄(ぶどう)酒二三杯を傾け暖を取りて後机に対す」。「孤高を演じ、楽しんでいるように見える。交流サイトで日常の充実度を競う若者と正反対だが、仮装する心理は案外似ているかもしれない」。『春秋』(180103)は年の初めに、永井荷風紀田順一郎野上弥生子、堀内薫を紹介し、日記を思う。「「展開」は、人それぞれだろう。就職、転職、定年退職。サラリーマン人生は平凡なようで作家に劣らず起伏に富む。書き始める契機は、改まった暦のなかに潜む」。
 (JN) 自分が日記に何かを記し始めたのはいつからだったか、思い出せない。子供のころから三日にならない坊主を新年に繰り返していた。それが今に繋がるスタートは大学生の時であったと思う。それが何を機会に始めたか。誰かの影響であったか。カードやシールを使っての記録から始まった。川喜田二郎か、梅棹忠夫、それは定かではない。それから40年ぐらい続いているのは、これから展開があると思い続けていたからか。しかし展開がない。ダラダラと日々を綴る。日々繰り返しのようだが、無常なのだろうか。無限に時間があると思っていたころから40年経過し、もう延長上にはそれだけの年数はなかろうか。何を思い日記を書くのか。今日は日記に何を記録しようか。消灯前にウトウトしながら、反省していようか。