『百合は、霊魂のために灯された祈りの火で、ぼくをじっと・・・』

『百合は、霊魂のために灯された祈りの火で、ぼくをじっと見つめ、熱く燃えあがらせ、明るく照らしだす。自由を渇望した人は死んだが、霊魂は抵抗のなかで生き続けている』<2017年7月15日(土)>
 劉暁波さんについて各紙、思いを記す。『筆洗』、「『憎しみは暴力と専制を生み出すのみ』との理念を投獄されても変えず、国家政権転覆扇動罪に問われた裁判で、言い切った。『私には敵はいない。私には憎しみはない』」。『余録』は、「暴力や憎悪を拒み、ただ言論をもって言論の自由を求めて獄中にある者を中国政府は『無力』と思ったのだろうか。21世紀の世界におけるその大いなる『力』を信じ、闘い通した劉さんの『文字の獄』であった」。『天声人語』は、「公民が国家の真の主人となるべきである。憲法を真の意味での人権の保証書とする――。言葉の力を当局はおそれたか」。『春秋』は、「劉氏の妻、劉霞さんも、自宅に軟禁され、外部との接触をほとんど断たれてきたという。中国ではほぼ封印されている劉氏のことを、人々が自由に語れる日が来てほしいと願う。劉霞さんの笑顔を見られる日も」。
 自由のため、人を恨まず、逃げず、暴力ではなく、言葉で闘う。中国政府は、この言葉では劉暁波さんに勝てないと、力で閉じ込めた。このあるまじき行為は、彼の死を待っていたのか。中国政府は何を守るために成り立っているのか。民を守らず、共産党員を守ることが国家の世界的任務であったのか。劉暁波さんは、諦めなかった。残念ながら、彼の肉体は息を止めてしまった。しかし、言葉は失われず、引き継がれていく。この世界は、暴力によって維持されているのであろうか。劉暁波さんは敵はないというが、暴力は敵である。憎しみを生む敵である。この暴力に私たちは恐れ屈して生きるか、劉暁波さんのように敵はないと言えるのか。