『「死のうとおもった」「でも、しんさいでいっぱい死んだ・・・』

<2016年11月17日(木)>
『「死のうとおもった」「でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」』
 「福島から来たというだけで「ばいきん」扱いにした」。訴えても、「せんせいに言(お)うとするとむしされてた」。なんということである。「筆洗」(161117)は、この問題に申す。「いじめにつながった誤解や偏見。それは大人や社会全体の誤解や偏見でもあろう。それが子どもに伝わったのか。やりきれぬ。『死のうとおもった』『でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた』。学校のだれもが目をふせても震災で犠牲になった故郷の人たちだけがこの子を見守っていてくれたか。生きよと諭してくれたか。晩秋の福島の空に手を合わせる。」
 子どもはリアルである。大人が行っていることをそのまま実行する。相対的に他者を自分より低くさせようという発想やいじめが社会で行われている以上、このようなことはなくならない。いじめは、訴えにくいのであるから、相談受ける窓口が肝心である。親身にその話に耳を傾ける能力がないと、ことは改善されず悪化するばかりである。況してや、先生が無視するとは言語道断である。子供の見える世界は狭いため、生活しているところでのいじめから逃れることができない。死を選んでしまうことが出てしまう。そう考えさせることさえ、有ってはならない。この悲しい現実を生み出す教室を無くさねばならない。(JN)