『正気を取り戻したときの悔恨の深さを、いまも思わ・・・』

<8月15日(月)>
『正気を取り戻したときの悔恨の深さを、いまも思わなければならない』

 「林芙美子は、『もう今はくだらん恋愛なんか書いてゐる時代ぢやないと思ひます』と、日中戦争が始まると従軍作家として華々しく活躍した」と、「春秋」(日経/16/8/15)はその時代の熱狂を伝える。そして敗戦、「『くだらん恋愛なんか』と口走った芙美子だが、戦後の名作『浮雲』では切々と悲運の男女を描いた。作品のなかの、南方に進出した日本人は心細げだ。彼女だけではない。のちにそういう感覚を得た人たちが異様に高ぶったのが昭和の一時期である。正気を取り戻したときの悔恨の深さを、いまも思わなければならない」。

 なぜなのだろうか。私はそれぞれの括りで勝ち負けに一喜一憂する。その括りの多くは生活を置く地域を中心とする。人種、信条、経済、年齢、身分などに係わらず、地域を主としてその括りにする。その闘いの場は、主にスポーツである。なぜに勝負ごとを好むのか。戦争の代わりなのか、古代オリンピックからの意義なのだろうか。8月はリオと甲子園にそれなりの影響を受けている。無関心に自分のことをしたいが、ついついテレビを見てしまい力が入る。しかも、愚かにもナショナリズム丸出しとなる。甲子園は東京代表が早々負けたのでお終いである。リオは、仮想敵国が多く、それぞれに力が入るナショナリストとなる。米国、ロシアに負けるなと、向きになる。ドイツやイタリア頑張れ。しかし、本日は、正気を取り戻しスポーツもお休みにして、戦争と平和を考える一日とすべきではないか。経済と宗教のアンバランスは戦いを呼ぶ。自分たちだけの平和で良いのか。世界で起きているアンバランスを何とかできないか。世界の人々の心と生活の安定に我々は寄与しようと考えなければならない。(JN)