圧政への勝利を祝い、別の圧政に手を染める、狂言の材にもならぬ

圧政への勝利を祝い、別の圧政に手を染める、狂言の材にもならぬ
(日経「春秋」2015/5/15付) 京都で狂言の修業に打ち込んでいる30代のチェコ人男性にインタビューをしたことがある。「多くの観客を前にして、宗教上や政治上の権力者を手玉に取る内容を堂々と演じているから」と。生い立ち、共産党が崩壊した1989年の「ビロード革命」の時には10代前半。「党の指導の下、国家は永遠に繁栄する」という教科書の記述に、教師に言われるまま大きな×印を付けたという。日本でも終戦の直後にあった光景だ。権威を徹底して相対化する狂言への深い共感は、こんな体験も元になったか。中国とロシアの首脳が蜜月を演じた先日のモスクワでの「対独戦勝70年記念式典」。欧州各国でも諸行事があり、小紙のベルリン発の記事は、スロバキア大統領が「過去の思想は憎悪をまき散らした」と話し、ファシズムのほか共産主義もあげた、と伝えた。ユーラシアの2人の盟主は、古い戦友同士のように握手した。圧政への勝利を祝いながら、別の圧政に手を染めるとすれば、狂言の材にもならぬ。「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」(マルクス
(JN) 中国もロシアも、嘗ては共産主義を名乗っていた。しかし、その実態は、汚職にまみれた国家社会主義であったように思えた。今も変わらないのかもしれない。それぞれが、過去におけるその国の長をめざしたから、ツァーや皇帝のような存在をめざし、配下も同様である。正に既に喜劇を起こしていた。権力集中で、個々の人間の存在を圧制する政治はいつまで続くのか。狂言にもならない狂言を続けているのは、大なり小なり、どこの国も同じであろうが、とにかく、有無を言わさず統一して行くファッショの精神は、ファシズム社会主義も変わらないものに見えてしまう。ジャイアン的、「僕のものは僕のもの、君の者も僕のもの」のような行動を何とかしてもらいたい。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86821250V10C15A5MM8000/