1995年」に現在が試されているに違いない

(日経「春秋」2015/01/18) 警視庁から各局。至急、至急! 1995年3月20日の朝、警察無線のやり取りは緊迫の度を増していた。地下鉄サリン事件の発生である。「同時多発重要事案に緊急配備を発令する」と声を高ぶらせた。至急、至急! そんな応答を収めた73分間の音声データが公開された。あの日の、戦慄の記録だ。阪神大震災の2カ月後、日本という国の豊かさや安全を人々が疑いはじめた戦後50年の年にこの事件は引き起こされた。以後さらに20年が流れたけれど、テロの脅威はむしろ世界を覆って強まるばかりだ。おりしも地下鉄サリン事件をめぐっては、逃亡していた教団元幹部に対する殺人罪などの裁判員裁判が始まった。オウム事件で起訴された192人の最後の一人だ。その被告が、往時は影もなかった市民参加の法廷で裁かれるのだから巡り合わせというべきか。よみがえる「1995年」に現在が試されているに違いない。
(JN) 信仰のために人を殺める。そのためは、何なのか? 他に方法がなかったのか? 盲信なのか? 日本の基本的な教育を受け、しかも高等教育を受けながら、何故。その後も、これだけの事件を起こしながらも、信者が絶えない。彼らには、今の日本の社会では何が足りないのであろうか。それを信仰は、満たしてくれたのか? 満たされないことを満たすために、人を殺めたのか? 自分の何かを満たすために、人を殺めた行為を何と考えるか? ゆるされないことである。被害者、遺族、関係者など、20年間苦しみながらも耐えてきた。加害者は、それをどう理解しているのであろうか?
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