延命措置、尊厳死、社会はどう格闘したらいいのだろう。

(日経「春秋」2014/11/5付) 古代ギリシャの医師ヒポクラテスが職業倫理を述べた「誓い」のなかに、安楽死にかかわる一節がある。いわく「医師は何人に請われるとも致死薬を与えず。またかかる指導をせず」。ヒポクラテスが生きた時代から、安楽死の是非は医学や哲学の「解」なきテーマであり続けてきた。脳腫瘍で余命わずかと宣告され、自死を予告していた米西部オレゴン州の女性が医師から処方された薬をのんで亡くなった。日本なら医師は自殺ほう助に問われよう。しかしオレゴン州では合法化されて久しく、女性はそれゆえに引っ越してきたという。日本での目下の焦点は今回のようなケースではなく、その手前の、患者の意志に基づき過剰な延命措置を施さない尊厳死の法制化だ。それでも容易に答えを導けぬ難問と、社会はどう格闘したらいいのだろう。
(JN) それぞれの生きる辛さは、他人にはわからない。でも、人が人を殺害することは、許してはならない。人はそれぞれに支え合い生きている。それを逃れてはならないし、逃してもならない。生きる努力や様々な病から生き抜くことが私たち生きている者の基本である。その生きて行くということが何のためか、それは生き抜くことで解答を探すことだ。お互いにそれぞれの立場で生き抜いて欲しいし、その辛さは計り知れないが、そうとしか言えない。それぞれの人の辛さはわからないのに、共感をすることは有り得るであろうか。自分が生きることも死ぬことも自由ではないかというかもしれないが、しかし、自分という人の命を奪う自由があるのであろうか。私たちはどこまで自由なのであろう。尊厳とはなんであるのか。斯く言う私は、どうであろうか。立派に生き抜くなどという自信はない。最後は、マーラーの5番を聴きながら死を迎えたなどとも思うが、多分尊厳なく、生きることにしがみつくかもしれない。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO79302940V01C14A1MM8000/