調書とはそれぞれの解釈の結果でもある

(日経「春秋」2014/9/12付) 言葉を会得するということは、自分の周囲にふつふつと沸き立っている無数にして無限の、無秩序な連続体に、言葉で切れ目を入れるということなのです。えたいの知れない素材をさばく包丁に、言葉をたとえればいいか。言葉にうるさかった井上さんは続けた。「切れ目を入れることで世界を整理整頓し、世界を解釈するわけですね。言葉なしでは世界に立ち向かうことができない」。政府の福島第1原発事故調査・検証委員会が関係者から集めた調書のうち、19人分が公開された。故吉田昌郎第1原発所長のほか、菅直人首相、枝野幸男官房長官ら時の政府の中心人物が、ふつふつと沸き立って無秩序のふちにあった世界に切れ目を入れた言葉の束である。そうした世界に立ち向かった人々の記録である。と同時に、調書とはそれぞれの解釈の結果でもある。証言だけから原発事故の真の姿を再現することはできないだろう。言葉の束にまた言葉で切れ目を入れる。難事である。
(JN) 言葉は、それぞれの地域における共通表現であるはずなのに、それぞれに解釈が異なってくる。言葉の一つ一つに様々な意味があり、その言葉が重なり、更に多くの表現を含んでくる。その言葉を会得しようとする人それぞれがまた切れ味さばき方に違いがあり、発せられた言葉を会得するということは、なんと難しいことか。それが記録となると、録音された音でも、それを文字にするとそこに解釈が入るし、記憶を記録にするとなると更に思い込みも入る。必死に、その場その場で考え、伝達して行く言葉を3年以上経過して、その真意を会得することの難しいことか。それぞれの言葉に解釈の違いがあろうと、守らなければならないのは、一人ひとりの命であることであり、資本が一番大事ではないということが会得されているのか、電力会社はどうであっとのだろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO76984660S4A910C1MM8000/