民法一本槍(やり)はいかにも古い。現実は千差万別だ。

(日経「春秋」2014/7/18付) 詩人の吉野弘さんが「I was born」という詩に残している。受身形。だから子どもは守られなければならない。「女性が結婚中に身ごもった場合、子は夫の子と推定する」という民法の決まりもそう。母親は出産の事実があるから分かるとして、自動的に父を決めておけば、子と家庭の安定、平和を守れるからだ。きのうの最高裁判決は、民法を優先せねばならぬと命じた。民法の規定は、父子の血のつながりを科学的に証明することが夢物語だった明治時代にできた。いまはDNA鑑定で血縁上の父を特定できる。その父が鑑定を振りかざして「受身形」の子をつねに幸せにできるとも限るまい。が、民法一本槍(やり)はいかにも古い。現実は千差万別だ。その現実を、判決は裁き切ったのだろうか。
(JN) 事例や法律に従うなら誰にでもできるよ、と言いたいところであるが、この会社に至るまで様々な条件を考え、そして形式的には民法に従いとなったとのであろうと考えたい。大岡裁きが今の裁判所にできるわけでもなく、型にはまってしまうのか。問題は、子供にとってより良い選択をしなければならないはずである。そのため、親のとの関係、子供の年齢、財産、等々、一つ一つのことを考えて行くのであり、最高裁が判決を下せることではなかろう。それより、親子関係は法律上の解釈など二の次である。血のつながりより心のつながりであろう。それは、互いの受け身ではなく、互いに自ら愛し合う関係が大事なのではないか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO74422660Y4A710C1MM8000/