期待して議事録を見たのちの歴史家は何を思うだろうか

(日経「春秋」2014/4/23付) イタリアのフィレンツェルネサンスが花開いた都市だ。指導者たちが権力闘争に駆り立てられる動機や彼らの内面にも迫り、そこから何かをつかもうとした。国は秩序ある状態から無秩序へ、そして再び秩序ある状態へと移り変わる。敗者もまた立ち直るための時間を持っている。政府が首相官邸のホームページで閣議の議事録の公開を始めた。議事録を公開するのは1885年に内閣制度が発足して以来、初めてだという。問題は閣僚のやり取りが中身のあるものかどうかだ。閣僚懇談会を含めきのう公開された今月1日分の議事録をみる限り、事前に準備された資料に沿ったとおぼしき発言が並んでいる。形式的な発言からは、いま起きていることの背景や本質をくみ取るのが難しい。期待して議事録を見たのちの歴史家は何を思うだろうか。
(JN) 立場上から言えば、事務が用意したペーパーに従って淡々と議事進行していくと都合が良い。しかし、それでは行政の思うことで進行し、発展のないし、創造的政策は生まれない。それが閣議である以上、発展的な意見交換がなされるべきであり、予めシナリオができていはならぬであろう。でも、プロレスのように、演じる者に能力があり、シナリオの中でも死にもの狂いで言論を闘わせるのであれば、少しはましであろうか。何れにしても、多様性の社会を理解できず、判で押したように靖国神社へ繰り出すような閣僚が多いこの内閣は、思考力のない、面白くも発展性もない。それはともかく、市民は、確りと彼らの行動を捉えて行かねば、私たち市民は、閣僚よりも発展性に乏しいということになろう。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO70272470T20C14A4MM8000/