古本、汚れたればこその懐旧だろう

(日経「春秋」2012/10/31) 山口瞳は、中野重治の文章は自分とリズムが合うと書いて続けた。「野球の投手が、調子がよくて快いテンポで投げているときは野手は守りやすいという。それと似たような快感があった」。古本に前の持ち主の書き込みや傍線が見つかると、たいがいは「汚れちまって」とがっかりするが、同じ箇所に心を動かされ、同じ感想を抱いていると分かるような場合だ。野球にたとえ続けるなら、好投手のもと、息の合う人と一緒に三遊間を守る快感と言えばいいか。いよいよ電子書籍の話題がかまびすしいが、残念ながら端末の中の本にこうした芸当はできない。本に詳しい評論家・紀田順一郎さんの一文を引こう。「書物は内容や外観の上に、所蔵者の人生や歳月をも含む重層的な記憶を伝える媒体ではないか」
(JN)平面的な電子書籍も技術の進歩で重層的な記憶を伝える媒体に成長するのではないか。我々が今、開いている本のように仮想空間が出来上がっていくであろう。しかし、古本はデジタル情報ではもう今のような市場での売買形式には乗らないか。それとも、書き込みのある電子書籍が出回るようになるのか。アナログでなくとも、デジタル書籍に懐旧する時代がやってくる。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO47892710R31C12A0MM8000/