現代はなにかと「安全宣言」が注目される時代だ

(日経「春秋」2012/10/24付) 現代はなにかと「安全宣言」が注目される時代だ。鳥インフルエンザ、BSE(牛海綿状脳症)、遊園地のジェットコースター、大量リコールの欠陥車問題、最近はオスプレイ配備、原発再稼働をめぐる安全宣言。2009年のイタリア中部地震の前に群発地震が起きていたときも、世の不安を受けて専門家はあれこれ話し合ったことだろう。その結果、安全宣言めいた報告をした学者らになんと刑事罰が下った。遺族感情に大いに報いた判決ではあろうが、この伝でいくなら、さまざまな安全宣言のたぐいや危険予知・予測など、怖くて誰も出せやしない。さすがに現地でも判決の評判は散々らしい。上級審の行方は予断を許さないが、それでもこの判決、安全宣言なるものに振り回される社会について考えさせてくれるのも確かだ。大胆なイタリア式に、戸惑いつつ思う。
(JN)安全宣言の責任を研究者に押し付けてよい者であろうか。イタリアのこの安全宣言の出し方がどのようになっているかわからないが、行政の責任者が宣言を出すことに責任を持たねば、研究者は研究に専念できない。とは言うものの、原発の安全宣言を行政の長が言っても何ら信頼されず訴えられず、不適切な大臣人事を行ってもまた訴えられない、この国も問題であろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO47619430U2A021C1MM8000/