『くさいものは、生命体がつくる貴重な個性であり、自分の証』

『くさいものは、生命体がつくる貴重な個性であり、自分の証』
 臭いことは現代社会ではきらわれているのか、東京新聞「筆洗」(2015年7月20日)は、疑問を投げかけている。
 「ウガンダには『恐怖を感じるほど臭い』酒、『アマルワ』は、『くさい度数』は『失神するほど、ときには命の危険も』の最高レベルである。この酒を造っていると数キロ離れた村に住む人が集まってくるそうだ。」ところが「電車で自分の横に座った若い女性が突然、別の席に移動する。それは、加齢臭のせいと分析している。『くさいものは、生命体がつくる貴重な個性であり、自分の証』というが、世間の機嫌を損ねたくない。昭和の街角、駅の雑踏。働く者とその生活が放つ何とも複雑で妙なにおいの懐かしさはひとまず忘れよう。あのアマルワも飲めば甘酸っぱく、さっぱりしているそうだが、そんなことは誰も信じてくれぬ時代である。」
 臭いもの好きである。でも、それを食するときの場所や運び方には気をつけなければならない。「くさや」は、かなりの力があり、新聞でかなり包んでも、列車などに乗るときは、ご迷惑をかけるし、焼く時はかなりの裕福なご家庭でないとお隣に迷惑をかけるし、臭いが残る。列車で迷惑をかけたと言えば、沢庵である。田舎で祖母が渡してくれた沢庵、新聞紙に何重にも包んでいたはずだが、列車内にあの香りが充満した。出張先のデパ地下で餃子を買い、移動する列車で食べようとしたら、ケースを開けた瞬間から広がる香り、大失敗であった。この力強い臭いゆえか、臭いものは嫌われる。嫌われているというより、臭ってはいけないのであろうか。しかし、臭わなくても、臭いと言われることがある。「じじ臭い」、これなら嫌われないか。否、「臭い仲」になれば大丈夫か。そんな屁にもならないことを考えているから、嫌われるのであろうか。でも、臭いは大事である。