『私たちの神隠しはきょうかもしれない』

『私たちの神隠しはきょうかもしれない』<2017年9月23日(土)>
 「四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた」(若松丈太郎さん「神隠しされた街」)。『天声人語』(0923)は続ける。「チェルノブイリ原発事故の強制疎開に材を取り、1994年につづった。不幸にも福島で現実になり、住民は近隣のまちへ他の県へと避難した。千葉県に避難した人たちが訴訟を起こす。千葉地裁はきのう訴えの一部を認め、東京電力に賠償金の支払いを命じた」。また、「原子力規制委員長だった田中俊一さんは退任にあたり、注文をつけた。事故の反省でなく、忘却に基づくかのような政策が続いている。時間を戻せない以上、教訓を未来へつなぐしかないはずなのに。若松さんの詩にはこんな一節もあった。〈私たちの神隠しはきょうかもしれない/うしろで子どもの声がした気がする〉」。
 (JN) 神は人を隠したりしない。その犯人は私たち人間である。競技場をいっぱいにした人々が忽然と姿を消す。何も神にの怒りを買うようなことをしていない人々が神隠しに遭うものか。何故にそこにいることができなくなったのか。それは、私たちには耐えられない魔力がそこに収められていたからである。その魔力は今の私たちに完全なコントロールができない。捨てることもできない。そんな場所が日本中にあることはどういうことなのか。この半世紀、政策を間違えた。政策は後戻りができない故、その悪弊は積もり積もる。この魔のごみはどこに捨てるのか。神の怒りは、その原因となる者に向けられるのではなく、人間全体に向けられるのか。今度は、幾つの競技場から人がいなくなるのか。