『一九四五年八月六日の夕刻、二十八歳の軍医・肥田・・・』

『一九四五年八月六日の夕刻、二十八歳の軍医・肥田舜太郎さんは、無数の瞳に見つめられていた』<2017年3月23日(木)>
 肥田舜太郎さんが3月20日に亡くなった。「筆洗」(170323)はその死を惜しむ。肥田さんは獣のような目をした被爆した人の目のことを忘れなかった。「米国、そして日本政府が封じ込めようとした被爆者の姿から目をそむけずに、医師として、その体と心の傷に手をふれ続けた。助けを求める人々の視線から医師が目をそらさざるをえない状況が、いかに非人間的か。自らの体験を国内外で語り、核廃絶を訴え続けた。『優しい人間の目』を取り戻して逝った男性の夢を、繰り返し見続けた人生だったという。」
 (JN) 広島へ行けば必ず行くところは、平和記念公園である。ここへ行けば、原爆ドームがあり、広島平和会館原爆記念陳列館がある。この記念館の中へ入るのは、2回目以降、「今回は入るのを止めようかな」とも思う。でも、視なければならない。目を背けたくなるその展示を頭の中に入れなければならない。現実はこの程度ではないと、もう起こしてはならないと自分の心に刻み、また人類皆に伝えねばならない。肥田舜太郎は、その現実から逃げることなく100歳まで闘い続けた。ありがとうございました。安らかにお休み願います。私たちのできる事には限りがありますが、肥田さんの努力を忘れません。