『どうもマッチそのものが、はかなげな存在になりつつあるようだ』

<2016年10月1日(土)>
『どうもマッチそのものが、はかなげな存在になりつつあるようだ』

 「マッチのはかない火には、ライターにはない情感がある」。「筆洗」(161001)は、このマッチを使わなくなった日本の生活、そしてその生産も「国内最大手メーカーも最近、製造をやめることを決めた」と伝える。そして、「ドイツ文学者の池内紀さんは『燐寸文学全集』で<マッチ箱には火がつまっている。これは炎のカケラの貯金箱だ>と書いた。その貯金箱から親子で小さな火を取りだし、ロウソクに移してみる。そんな秋の夜のひとときも、いい」と。

 マッチを使わなくなった。既に子供たちには縁のないものになっている。自分自身、煙草を止めてから、今マッチを使用するのは年に何回あろうか。仏壇の前での拝む時と誕生日のケーキのロウソクに火を点す以外に使わない。その昔は、仕事場のデスクの引き出しに、様々なお店のマッチがあったが、もうマッチが身近からほとんど消えてしまったし、自分の記憶にも、マッチをどんな時に使ったのか、忘れている。お風呂、ストーブ、花火、蚊取り線香、ガスレンジ、焚火、理科の実験、・・・・・。二十代の時はパイプの煙を燻らせていた。十代初期以前は停電対応のために、ロウソクとマッチは必需品であった。消費生活が大きく変わり、贅沢をしているようでもあるが、小さくはかなく消えるこの私生活は、マッチやマッチ箱の状況から変わっていないかもしれない。(JN)