『国家とは、現存する者、既に逝った者・・・』

『国家とは、現存する者、既に逝った者、将来生を受ける者の間のパートナーシップである』<2018年8月15日(水)>
 8月15日に、『春秋』(180815)は思う。「月遅れのお盆と、終戦の日が重なったのは歴史の偶然だ。が、平和国家の建設には幸いだったかもしれない。・・・18世紀の英国の政治哲学者、エドマンド・バークは、「国家とは、現存する者、既に逝った者、将来生を受ける者の間のパートナーシップである」と説いた。・・・陛下が、歴史を学ぶ意義を繰り返し強調される理由はどこにあるのか。・・・『その総意を形成するひとつの要素が、過去に対する共通の理解だとお考えのようだ』と側近から聞いたことがある。きょう平成最後の全国戦没者追悼式が営まれる。お言葉を胸に刻みたい」。
 (JN) 12時に黙とう。この日を私たちはどう考えるか。戦争とは国家とは、年を経るとともにわからなくなってくる。子供の頃の8月15日を想いだす。この日は夏休みの一日に過ぎなかったか。否、東京に居たら登校日であったろうか。一度も登校したことがないので、この日に何が話されていたのか。若しかしたら、この日の意味を伝えられていたのだろうか。当の私は、太平洋戦争のことなど考える事なく、田舎の野山を駆け回っていた。大自然の有難さを体で感じていた。そして、お盆は親戚一同が集まり、両手程のいとこたちが駆けずり回っていた。広い部屋にテーブルを出し御馳走をいただく。その部屋の鴨居の上には祖父さんの弟の写真がある。飛行兵で亡くなったと聞く。父(次男)は酔っ払い、予科練の話をする。伯父(長男)は満州の話。若い叔父や叔母たちは、この二人が船上から帰って来た時の話をする。皆、この戦争を起こした国家に対して何を思っていたのであろうか。子どもの私はそんなことを思うこともなく、お盆と夏休みを過ごした。平和なお盆の中にも、戦争のことを忘れてはいなかったが、体験者が亡くなって行き、そこからどうなっていくか。体験を聞いた私たちが皆の思いを引き継がねばならない。