『季節の情緒と結び付き、歌や詩にもよまれた魚食・・・』

『季節の情緒と結び付き、歌や詩にもよまれた魚食の文化は、大きな曲がり角に来ているような気がする』<2018年6月22日(金)>
 「嘉風関は愛知県内のうな丼の店がお気に入り。以前、7月の名古屋場所の際に15日間で8回行き、体重が10キロ増えた。まわしが短くなってしまったという」。しかし、このウナギはと、『春秋』(180622)心配する。「4月末までに養殖池に入った稚魚は14トンと前年に比べ3割減。不漁のせいである」。さらに「サンマがとれない、スルメイカは壊滅的だ、カツオも不漁――。・・・季節の情緒と結び付き、歌や詩にもよまれた魚食の文化は、大きな曲がり角に来ているような気がする。旬がやって来るたび『高いねぇ』『手が出ない』の声ばかりではさびしい。資源の調査や国際的な共同管理をさらに進めるなど手を打たねばなるまい」。
 (JN) 養殖はやっているものの海の幸は自然任せである。そのお任せの自然を大事にせず、取るだけ取っていく人間たち。二酸化炭素の大量排出やプラスティック・ゴミの河川・海への投棄を何とかできないのか。目先のことで精一杯の我々は過去の自分たちの行動が現在の状況を生んでいることを理解できない。自然は気まぐれであるので、漁獲状況が良くなることもあるが、中・長期的にはどうなのだろうか。とにかく、人間の自然環境の破壊は重罪である。我々の罪への自然の裁きか、ドンドンおいしい魚が取れなくなって行くのであろうか。これから迎える土用をどうすればよいのか。ウナギは無理だから、牛ステーキか。秋のサンマはどうなるのだろう。今年、来年、それ以降、情報はあろうがそれはコントロールされているのであろうか。これは、ウナギやサンマが食べられないという話ではなく、我々の生活環境として考えねばならなうでしょう。