過去に向けられたる希望は凡て痴である

(日経「春秋」2014/9/14付) 交通網の発達で、いまは遠方でもあまり時間をかけずに旅ができる。しかし時間そのものをさかのぼることは夢物語だ。もし昔に戻れたなら何をするだろう。自分の失敗を消すか、それとも誰かを救うか。若い男が過去のある瞬間に繰り返し飛ばされてしまう。そんな場面を最近、日本の若者が創った演劇で見た。舞台は米ニューヨーク。行き先は2001年9月11日、世界貿易センタービルがテロに襲われる直前だ。この事件で亡くなった父の命を救おうと、男はビルへ急ぐ。迫る悲劇を前に、あの手この手で外へ誘うのだ。何度試みても運命は変わらない。あの事件から13年たつ。オバマ大統領はテロとの戦いの再開を宣言した。「過去に向けられたる希望は凡(すべ)て痴である」とは哲学者・阿部次郎の言葉だが、それでも歴史の歩みは他にもなかったか問いたくなる。国と民族を問わず、不意に失われた命のそれぞれに愛(いと)おしむ人がいたはずなのに。
(JN) 13年前には一緒にいた人がいなくなり、有ったものがこの間で無くなった。13年前には思いもしなかったことがそれから起きた。あの時にこうしておけば、こうはならなかったのではないか。もうそのやり直しはできない。小さな個々人の行動がどこまで様々な他人に影響を与えるのか、特に、国を代表する人びとの行動は、その時から大きく影響を与える。大義名分のために小さな我々の命が奪われることが如何に愚かであるか、それは大義名分ではない。そのことがわかっていて行われる痴態をなぜ繰り返すのか、過去に遡って消さることはできなくとも、未来にそれを持ち込まないことはできないのか。私たちの過去の歴史に対する、その恨み、増悪及び嫉妬等は限りない。これに乗ずる様々な指導者と民衆ある限り、私たちは互いに手を取り合うことはない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO77077830U4A910C1MM8000/